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《空しい時》   category
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「神の性質それは愛」(111009ku)    荒井好光

          ヨハネの手紙Ⅰ4:7~21
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

 

 

聖書辞典で愛の項を見ますと、次のように述べています。・・聖書の中に用いられている愛は独特なことばです。ギリシャ語にはアガペーとエロスとがありますが、両者は全く内容を異にする別のことばです。日本語に訳すと同じく愛となるからよく注意をすること。生まれながらの人の持つ愛(エロス)は、自己中心的な愛。相手が愛される資格有りやいなやを問い、相手から奪う愛。たとえば愛という語を男女両性の恋愛や情愛に用いる時、それは上述の愛を意味します。一方、聖書的キリスト教的愛(アガペー)は、前者と全く異なる自己犠牲の愛。相手が愛される資格有りやいなやを問わずに愛する愛、自己を与える愛。生まれながらの人の心はこの愛については少しも知ることができない。・・

 

生まれながらの人の持つ愛は、相手に好まれるように自分を変化させ、造りあげていくものです。しかし、聖書辞典にもありましたように、その目的は相手を支配することであり、相手を奪う愛である訳です。勿論クリスチャンでなくても、その経験から奪う愛だけでは生きていけないことを学び自己犠牲の愛が見られますが十分とは言えない訳です。
聖書辞典に「生まれながらの人の心はこの愛については少しも知ることができない」とありましたが、2、3才の幼児を見ていると良く分かります。自分の欲しいオモチャを手にしたならば決して人に譲ると言うことをしません。人は本来自己中心な者だという事が良く分かります。しかし、お母さんや周りの大人から諭されて、お友達に譲ることもあります。つまり、自己犠牲の愛は学習によって学び取って行かなければ育たないものだと言うことです。

 

さて、聖書的キリスト教的愛(アガペー)は、自己犠牲の愛です。自己犠牲とは相手の益を求め、自分の満足は求めていないと言うことです。自己中心の愛は、自分を満足させることですが、自己犠牲の愛は他人の自己満足の助けをすると言うことです。自分の満足を放棄して他人の満足の助けをすると言うことです。しかも愛する資格有りやいなやを問わずにそれをすると言うことです。

では、どのようにしたらキリスト教的愛を持つことができるのでしょうか。聖書辞典では次のように述べています。--愛の真の源泉は神です。なぜなら神は愛であるから。人の心にこの愛が宿りうるのは、イエス・キリストによってだけです。イエス・キリストは神の愛の顕示であり、最高の賜物です。十字架上の贖いのみわざは愛のクライマックスです。この愛が個々の信者の心に実際に生きて働くのは、聖霊なる神の現臨と働きによります。聖霊の働きなくして人の心にこの愛はない。--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本来、人が持っている愛は、愛する資格有りやいなやを問い、愛するに値するものだけを愛していると言うことです。ですから自己犠牲の愛だと思っていても、相手を選んでいる以上、自己中心の愛と言うことができます。
聖書辞典では「人の心に自己犠牲の愛が宿りうるのは、イエス・キリストによってだけです」とありました。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりになるために神によって、地上に使わされました。聖書辞典に「愛は、創造主としての神ご自身の性質です」とあるのですが、イエス・キリスト自身が創造主としての神の愛を現しています。その頂点に十字架上の贖いのみわざがある訳です。

 

どうしたら私たちがその本来の愛を持つことができるのでしょうか。それは愛は神の性質ですから、神と同じ立場に私たちも立つ必要があると言うことです。
ヨハネの手紙Ⅰ4:7に「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」とある通りです。神と一つとなることなしに愛を持つ者となることはできません。
愛とはイエス・キリストの十字架そのものです。私たちはイエス・キリストの犠牲のゆえに神の救いに与り、真に生きる者と変えられました。ですから真の愛とは、「イエス・キリストが私を罪から救ってくださいました」、との感謝からスタートするものであり、感謝の内に留まっている必要があります。ヨハネの手紙Ⅰ4:10に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とある通りです。


人と人との間に自己犠牲の愛を現す、これが救われている者の性質である訳です。先程も述べましたように自己犠牲の愛とは他人の自己満足の助けをすることであり、しかも愛する資格有りやいなやを問わずにそれをすると言うことです。
人が自分を変えることができるのは、ありのままの自分が受け入れられている時です。人がありのままの自分を現し成長に向かうのは、罪のある、ありのままがイエス・キリストによって赦され受け入れられているからです。人と人との関係においても、このありのままの相手を愛すると言うところからスタートしなければなりません。
その時に人は自分を変え成長へと向かうことができます。

4:11「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。


私たちが人を愛するという時、その手本は神です。神が私を愛してくださったように、目の前にいる人を愛さなければなりません。

これがイエス・キリストによって与えられた新しい掟である訳です。ヨハネによる福音書13:34「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
旧約聖書は聖書の土台であり、新約聖書はその完成です。旧約時代に実現しなかった律法は、イエス・キリストの新しい掟、つまり愛の法則によって完成しようとしています。マタイによる福音書5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とある通りです。

 

イエス・キリストの愛によって私たちは神の国の原則を学び、また実行する術(すべ)を学ぶことができました。それは新しい掟である「愛の法則」です。
真の愛とは、イエス・キリストが「私を罪から救ってくださいました」、との感謝からスタートするものであり、感謝の内に留まり、その感謝の思いを目の前の人に与えることである訳です。
神の性質である真の愛を実践してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の性質それは愛 - yoshimitsu arai
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