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road_ar(ロードアラ)メッセージ

《従順になる》   category
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不従順」(111120ku)    荒井好光

          創世記3:1~11

初めアダムとエバは神様の言葉に従順でした。神様に従うことは当たり前のことであり、それ以外のことは考えられませんでした。最初の人、アダムとエバは神と共に歩むという生き方しか知らなかった訳です。困ったことがある時には神様に相談しました。彼らの仕事は(創)2:15に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とあるように、エデンの園の管理でした。彼らの神様への従順は平和と祝福とに満ちたものでした。彼らの持っていた性質は、信頼、真実、尊敬、感謝、希望、喜びでした。

 

ところが、蛇に唆(そそのか)された彼らは、神への従順に満足できなくなり、自分自身の可能性を信じるようになりました。彼らは従順の祝福から不従順へと変化していきました。彼らにとってこの変化は小さなものであったかもしれません。しかし、実際はこの従順と不従順の間は非常に大きなものとなって行きます。不従順、それは第一に恐れを生じさせます。そして不安、不信、失意と失望、不遜、敵意、これは神を見失った結果として現れるものです。つまり不従順と言うのは神を失うと言うことです。これは不従順と言うことが神に背を向けると言うことのために起きたことです。しかし、神様が遠くへ退いたと言うことではありません。神様は不従順な人の側(そば)近くにおられるのですが、人間の側(がわ)でその神の愛を受け取ることを拒否している状態となってしまっている訳です。
そのことは創世記3:9を見ますと良く理解できると思います。「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(3:9)。神様は今も神様に背を向けている一人一人の側近くにおられ、「どこにいるのか。」と声を掛けてくださっています。

 

 

 

従順と不従順の違いについてもう一度確認していきますと、従順の信頼はすべての人に対して信頼する、信じると言うことです。また、信頼すると言うことはすべての人を愛する事とも言えます。次に真実とは、つまりありのままの自分を現すと言うことです。神への従順と言うことは、神様からありのままの自分が受け入れられているとの確信であり、信仰です。次に尊敬とは、神の前に謙虚であることから来る性質です。すべての人は神によって生かされ愛されている一人一人ですから、神の前に謙虚である人は隣人の前でも謙虚であり、尊敬を致します。次に感謝については神に対する従順な者に与えられる祝福に対して沸き起こる自然な感情です。そして希望、今(いま)与えられている祝福の故に、未来にも与えられるであろう祝福を先取りしている様子、これが希望です。そして喜び、これが神様が私たちに期待しているものです。神様に対して従順である時にこの喜びを現すことができるようになります。

次に不従順に現れる性質を見てまいりましょう。第一に恐れ、これは神様に背を向けることから起こる性質です。神様から離れてしまうと信頼できるものは自分だけとなります。しかし、誰も自分を信じることが出来る人はいない訳です。私たちは弱さがあり誘惑に陥りやすい者である事を知っている訳です。その自分だけにしか頼れないとなれば、そこに起こってくる感情は不安と恐れと言うことになります。次に不信、これは信頼するものを持たない人に現れる性質です。不信、つまり疑いと言うことであり、すべてに懐疑的と言うことです。失意と失望、これは希望の無いという意味です。人は誰も希望を失ってなお生きていける人はいません。ですから私たちは生涯に亘(わた)って消えることのない希望を必要としています。不遜、これは辞書によると「思い上がった態度」とあります。恐れや不安、失望の中にあるとき、これを打ち消そうとする時に沸き起こる性質です。つまりありのままの自分を現すことができないので、何か自分が大きな存在であるかのように振る舞うことになります。敵意についても同じことが言えます。自分の不安や恐れを隠すために人を攻撃してしまいます。神様への従順を失うことによる結果には目を覆いたくなる思いがいたします。

さて、神様は不従順となってしまった、人間をそのまま放置しておられたのでしょうか。勿論そうではありません。ご自分に似せて創られた「人」を愛して止まない神様は幾つかの救済の手を差し伸べています。第一に創世記3:21に「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあります。神様は神様に対して不遜な態度を取る人々にもなお、彼らを受け入れ、その必要を備えてくださいます。私たちが、神を裏切るような時にも神様は、私たちに愛を注いでくださるお方です。


第二に創世記3:15「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」。これは蛇に対して語られたものですが、「女の子孫」、つまり、イエス・キリストはサタンの頭を砕く、と言うことです。神様は不従順に陥った人間に対して、もう一度「従順」であることができる道を備えました。

ヨハネの手紙Ⅰ3:8に「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とある通りです。イエス・キリストはサタンを完全に滅ぼしてくださいます。つまり、完全な聖潔(きよめ)られた人と変えられる事が出来ます。
イエス・キリストは私たちが神に対して「従順」であることができるように、その尊い御業を実現してくださいました。
従順な人に現される性質は、信頼、真実、尊敬、感謝、希望、喜びでした。神様はエデンの園でアダムとエバが持っていた祝福を、私たちがもう一度手にすることが出来るようにしてくださいました。神と共に歩む中に私たちは、すべての人に信頼と真実とを尽くす者と変えらます。不従順では無く従順な者となるよう信仰を新たにしてまいりましょう。

《今日の聖書》

創世記3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

<要約>

初めアダムとエバは神様の言葉に従順でした。神様に従うことは当たり前のことであり、それ以外のことは考えられませんでした。最初の人、アダムとエバは神と共に歩むという生き方しか知らなかった訳です。困ったことがある時には神様に相談しました。彼らの仕事は(創)2:15に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とあるように、エデンの園の管理でした。彼らの神様への従順はエデンの園において平和と祝福とに満ちたものでした。そこで彼らの持っていた性質は、信頼、真実、尊敬、感謝、希望、喜びでした。ところが、蛇に唆(そそのか)された彼らは、神への従順に満足できなくなり、自分自身の可能性を信じるようになりました。彼らは従順の祝福から不従順へと変化していきました。彼らにとってこの変化は小さなものであったかもしれません。しかし、実際はこの従順と不従順の間は非常に大きなものとなって行きます。不従順、それは第一に恐れを生じさせます。そして不安、不信、失意と失望、不遜、敵意、これは神を失った結果として現れるものです。


神様は不従順となってしまった人間をなお愛されました。ご自分に似せて創られた「人」を愛して止まない神様は幾つかの救済の手を差し伸べています。第一に(創)3:21「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。神様は神様に対して不遜な態度を取る人々にもなお、彼らを受け入れ、その必要を備えてくださいます。私たちが、神を裏切るような時にも神様は、私たちに愛を注いでくださるお方です。第二に(創)3:15「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。これは蛇に対して語られたものですが、「女の子孫」、つまり、イエス・キリストはサタンの頭を砕く、と言うことです。神様は不従順に陥った人間に対して、もう一度「従順」であることができる道を備えました。ヨハネⅠ3:8に「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」とある通りです。イエス・キリストは私たちが神に対して「従順」であることができるように、その尊い御業を実現してくださいました。従順な人に現される性質は、信頼、真実、尊敬、感謝、希望、喜びでした。神と共に歩むことによって、すべての人に信頼と真実とを尽くしてまいりましょう。

 

 

不従順yoshimitsu arai
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